「地域発!いいもの」
好事例集

PROJECT 05

令和2年度

地域と連携した窯芸活動

PROJECT DATA

実施主体:大田市立第三中学校

拠点:島根県大田市

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Overview

生徒、教職員、卒業生、保護者、地元企業が一体に
登り窯のある中学校で60年続く「窯芸活動」

大田市立第三中学校のある水上町は石州瓦の産地で、地元の窯元の協力で60年前、学校の敷地内に「登り窯」が作られた。部活動として始まった「窯芸活動」だが、瓦会社の減少と共に生徒が減る中で、学校が拠点になって、卒業生、保護者の学校関係者、住民、地元企業が一体となった地域全体の「窯芸活動」へと広がっている。

代表者
Interview

地域全体の活動へと広がる窯芸活動

代表者プロフィール

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代表者プロフィール

大田市立第三中学校 校長

平田 ゆかり さん

背景ときっかけ

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窯芸部の部活動から地域全体の活動へ

大田三中に登り窯ができたのは昭和35年。この登り窯を使った「窯芸活動」は、60年続く伝統的な活動です。大田三中の学区は、大森町、水上町、祖式町、大代町の4町で、大森町には世界遺産の石見銀山があります。学校のある水上町は、白土と呼ばれるよい粘土が取れることから江戸時代から石州瓦の生産が盛んで、その窯元の協力で学校の登り窯も作られました。

「窯芸活動」は長年、「窯芸部」の部活動でした。しかし、瓦産業が衰退する中で水上町の瓦会社も当時の10社から1社になり、大田三中の生徒も次第に減り、平成2年には窯芸部が廃部になりました。以後、「窯芸活動」は学校から地域へと広がっていきます。大きな登り窯で焼くには、生徒の作品だけではもったいないというのが理由です。大田三中の生徒数は今年13人と減ってしまいましたが、窯芸活動は今、保護者、卒業生、住民まで巻き込んだ地域全体の活動へと広がっています。

これまでの取組

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窯芸活動を通した社会貢献活動も

地域の人たちの作品を登り窯で一緒に焼くようになったのは、10年くらい前からです。平成8年に登り窯を作り替えた時、一緒に作業小屋が作られたのですが、例年は6月になると、生徒だけでなく、学区内の園児や住民が来て窯芸棟で作品づくりが行われます。

現在の窯芸棟は奥の作業小屋を加え、平成8年に建て替えられている

作陶の指導に当たっていただいているのは、60年にわたって窯芸活動を支援・指導していただいている石州瓦メーカー株式会社シバオの芝尾会長や地域の陶芸クラブのメンバーです。もともと瓦工場が多く、また、窯芸活動を経験した大田三中の卒業生も多いことから、地域には陶芸クラブのメンバーが70人くらいいます。

今年は新型コロナの影響で1カ月ずれ込みましたが、作陶の後に行われるのが、7月の素焼き、釉薬塗り、そして8月の本焼きです。素焼き、本焼きは合宿で行われ、芝尾会長や地域の陶芸クラブのメンバー、保護者が立ち会いながら、全校生徒が交代で火の番を行います。

窯芸活動を通じた社会貢献活動も行っています。平成9年から平成24年の15年間にわたって作られた陶板作品は石見銀山トンネル付近に展示され、観光客の目を楽しませています。今年は、石見銀山世界遺産センターのおみやげ用に、丁銀(銀貨)のレプリカを陶器で500個作りました。

今年6月に窯芸教室で行われた作陶活動
今年6月に窯芸教室で行われた作陶活動
生徒、保護者、園児、住民の作品を詰め込んだ登り窯
生徒たちは3班に分かれ、火の番をする

今後の展開

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次の世代に残したい窯芸活動

大田三中の窯芸活動は、生徒の数が少なくなって、地域の人たちの作品も学校の登り窯で焼き上げるようになり、生徒の責任感を育てる機会になっています。また、窯芸活動という大田三中でしかできない体験は、生徒に地元に対する誇りと郷土愛を育てています。

生徒数が13人になってしまった大田三中ですが、地域には観光地の石見銀山だけでなく、義肢装具メーカーや服飾メーカーの二つの全国的な企業が育っています。そこで働く人たちの子どもたちが、今、小学校の高学年になっていますので、60年続く窯芸活動を、次の世代にも残していければと思っています。

メンバーズインタビュー

大田三中の登り窯の歴史、窯当番の歴史

平田 ゆかりさん
(左上)

大田市立第三中学校 校長

芝尾 金男さん
(右上)

株式会社 シバオ 取締役会長

川平 隼也さん
(右下)

大田市立第三中学校3年
生徒会会長

――登り窯を中学校に作ったのは昭和35年ですが、きっかけは何だったのでしょう。

芝尾 大田三中に赴任してきた先生が陶芸好きで、学校のある水上地区の土で焼き物ができないか、当時PTA会長だった私の父に相談したのがきっかけです。その頃、父は水上地区に10社あった瓦会社の窯元に声をかけて、手分けして登り窯に必要なレンガを焼いてもらい、会社の職人を連れて学校に登り窯を作ったと聞いています。私が手伝い始めたのは、登り窯ができた3年後の昭和38年からです。

――なぜ、手伝うことになったのですか。

芝尾 自分の興味もあり、京都にその前の2年半、陶芸の勉強に行っていました。昔は瓦も登り窯で焼いていましたが、陶器とは勘所が違います。それで、「せっかく勉強したのだから、お前手伝え」となったのです。今の会社では瓦はトンネル窯で焼き、生産も完全オートメーション化されていますから、全く別の世界になっていますね。

石州瓦の焼成温度も1200度で瓦の中では最も高温という(シバオの工場で)

ただ、石見銀山トンネル付近に展示した卒業生の陶板作品は、登り窯だと均一の色が出にくいので、学校の登り窯で素焼きした後、色付けし、温度管理のできる会社のトンネル窯で焼いてきました。

石見銀山トンネル付近に展示された歴代の3年生が製作した陶板

――素焼き合宿、本焼き合宿の窯当番について聞きたいのですが。

平田 13人の生徒を3班に分け、大体1~2時間交代で窯当番をしてもらい、温度の記録も生徒に取ってもらっています。30分ごとの温度を記録したノートは、代々学校に残っていて、探せば自分の親の書いたノートも見つかるはずです。合宿は、食事、夕食時の健康観察、シャワー、休憩・仮眠と事前に細かいスケジュールを立て、夜には大田三中の卒業生や窯芸活動に詳しい保護者にも交代で来てもらっています。

芝尾 本焼きの時は1200度まで温度を上げ、最後の3、4時間はその温度をキープして焼き上げます。予め時間ごとに目標温度が設定してあって、今は1000度くらいまでなら生徒だけで管理できますね。

――川平さんは3年生ですが、窯当番にはどんな感想を持っていますか。

川平 素焼きと本焼きはまるで違います。素焼きの時は最終的な温度が800度なので火の前で雑談できますが、本焼きで1000度を超えると火の色が白くなって近くにいられなくなります。1100度を超えるあたりから温度をさらに上げるために横の穴から「一本入れ」を行うのですが、防火服を着ていても熱いですね。

防火服を着て「一本入れ」に挑む

――これまでどういう作品を作ってきたのですか。

川平 人と同じものを作るのが嫌なので、去年はワイングラスに挑戦したのですが、素焼きの段階で脚が折れ、そのまま釉薬を塗って本焼きしました。悔しいので、今年も挑戦しました。作陶の時に講師の方に、「台座、脚、器の順で時間をあけて作り、少し乾いてから、接着面に爪楊枝などで細かい穴を開け、水で溶いた粘土で接着させる」というアドバイスを受けました。今年は、素焼きまではうまくいきました。あとは、本焼きの結果待ちです。そうやって去年の経験や友だちの話を聞きながら作品を作るのも楽しいですが、それよりずっと面白いのが、窯の火を見ながら友だちと雑談する窯当番の時間です。窯芸活動は、僕が卒業した後もなくなって欲しくないですね。

関係者インタビュー

プロジェクト関係者に聞いてみました。

我が子に特別な体験をさせることができる登り窯

窯焼き合宿の時、PTAや保護者は子どもたちのサポート役に徹し、朝まで順番に窯焼きの立ち会いをしたり、合宿のご飯の炊き出しを手伝います。

私も大田三中の卒業生です。当時はまだ窯芸部があって、登り窯の隣が窯芸部、その隣が野球部の部室でした。窯芸部は男子部で、部員たちは1年かけて作品を作るため、登り窯いっぱいに詰めて焼成していました。窯芸部員以外の生徒は美術の時間に何個か作る程度で、窯焚きはもっぱら窯芸部員の仕事でした。

今はPTAも参加しています。今年は7月19日に高山公民館とPTA共催で、住民と保護者の窯芸教室を開きました。私も瓦会社に勤めていて、陶芸も個人的にやっていることから、講師の一人として参加しました。

中学校になぜ登り窯を作られたか考えてみると不思議ですが、やはり、住民の多くが瓦工場に関係していたので、焼き物や登り窯に思い入れがあった地域だったからだと思います。自分で作った作品を、自分たちの手で薪をくべて焼き上げることを中学生で体験できるのは、日本では大田三中だけだと思います。大田三中の登り窯は、古くから続く石州瓦の文化を伝えるだけでなく、今も特別な体験を我が子にさせてくれています。

大田市立第三中学校 PTA会長
三國 和彦さん