PROJECT 08
令和2年度
実施主体:山鹿灯籠振興会
拠点:熊本県山鹿市
Overview
34年前から継続実施した「灯籠教室」が実らせた
山鹿灯籠の技術・技法の継承
和紙の断面を糊で貼り合わせて立体物を作る山鹿灯籠は、和紙工芸の極致と言われる。長い間、世襲で受け継がれてきた灯籠師の伝統が途絶えようとする中、34年をかけた山鹿市と連携した山鹿灯籠の後継者育成策・振興策が、新たな伝統と地域の活力を生み出し始めている。
代表者
Interview
世襲から後継者育成へ、山鹿灯籠の伝統と革新
代表者プロフィール
代表者プロフィール
灯籠師(山鹿灯籠振興会 副会長)
田中 久美子 さん
背景ときっかけ
灯籠師の本来の仕事は「奉納灯籠」の作成
山鹿灯籠は、熊本県山鹿市のみに伝わる手漉き和紙と糊だけで作られる立体的な工芸品です。毎年8月15日、16日に行われる「山鹿灯籠まつり」では、浴衣姿の女性が和紙で作られた「金灯籠(かなとうろう)」を頭にのせた「千人灯籠踊り」が行われます。
山鹿灯籠というと全国的にはこの「金灯籠」が有名ですが、「山鹿灯籠まつり」には、同時に町内会や企業、団体が制作を依頼した灯籠が毎年、山鹿の大宮神社に奉納されます。「奉納灯籠」の始まりは室町時代と伝えられいますが、多くは有名な建物や神殿を緻密に模したものです。灯籠師はもちろん踊り用の「金灯籠」も作りますが、「奉納灯籠」の制作こそが灯籠師本来の仕事です。
これまでの取組
5人の灯籠師が「山鹿灯籠制作教室」出身者
一人前の灯籠師になるには、10年以上の修練が必要だと言われます。後継者育成のために山鹿市主催で34年前から始められたのが、「山鹿灯籠制作教室」です。灯籠師を講師に、毎年1月から3月にかけて、週2回、全20回で金灯籠作りを教えてもらえます。この体験教室を経て灯籠師へ弟子入りして灯籠師になった人も多くいます。灯籠師は現在8人いますが、その内5人は「山鹿灯籠制作教室」の出身者です。
平成24年には灯籠師を中心に「山鹿灯籠振興会」が結成され、県・市・振興会が協力し合い、後継者の育成だけでなく、山鹿灯籠の認知や理解を深める活動にも積極的に取り組んでいます。山鹿灯籠民芸館などで「山鹿灯籠づくり体験」、小学校などには灯籠師が出向いて「灯籠体験授業」などを行なっています。
今後の展開
山鹿灯籠の新しい伝統づくりへ
山鹿灯籠振興会で新たに取り組んでいるのが、山鹿灯籠の技術・技法を活かした新商品開発です。これまで、風に揺れるインテリアモビール「TouRou(トーロー)」や和紙の吸水性を活かし、精油を吸い上げるアロマディフューザー「かぐわし」などを商品化してきました。山鹿灯籠を残していくためには、灯籠師が山鹿灯籠で生活していくこと、安定的に収入を得ることが大事です。新商品開発は、そうした考えから始めた取組です。
山鹿灯籠も、かつては世襲で伝えられていました。その技術・技法を公開し、多くの弟子を育てたのが、昭和初期~中期に活躍した松本清記灯籠師でした。今年3月に亡くなった中島清・前山鹿灯籠振興会会長のお父様の中島二人(つぎと)先生も弟子であり、現在の灯籠師8人全員が松本清記灯籠師の流れを汲んでいます。師匠たちから技術・技法を受け継ぐ一方で、灯籠師一人ひとりが新しい創意工夫を加えていく。それが山鹿灯籠の新しい伝統だと思っています。
メンバーズインタビュー
「灯籠教室」から弟子入り、そして灯籠師
坂本 ゆかりさん
(写真左)
灯籠師
中島 光代さん
(写真中央)
灯籠師(山鹿灯籠振興会 会長)
田中 久美子さん
(写真右)
灯籠師(山鹿灯籠振興会 副会長)
――みなさん、34年前から始まった「山鹿灯籠制作教室」出身の灯籠師だとお聞きしていますが。
田中 中島光代さんが「灯籠教室(山鹿灯籠制作教室)」出身で最初の、しかも女性としても最初の灯籠師です。中島さん、私、坂本さんと年代は違いますが、3人とも中島清先生の弟子でした。灯籠教室が始まる前まで灯籠師は世襲で、そもそも奉納灯籠は神事ですから、女性が表に出ることはなかったのです。しかし、継ぐ人がいなければ灯籠師はいなくなります。それで市が始めたのが灯籠教室と、そこから見出された人材に灯籠師の後継者になってもらうための助成でした。
中島 私は、助成制度が始まった最初の2年間は清先生のお父様の中島二人(つぎと)先生に師事していました。その後二人先生が体調を崩されたので、清先生の店舗兼工房へ時々通わせていただきながら山鹿灯籠を制作するうえで必要なことを学びました。後継者育成期間の2年間では上達できる訳もなく、灯籠教室で金灯籠と出会ってから14年後に灯籠師になることができました。
田中 私は最初から中島清先生の弟子になりたくて、灯籠教室に通いました。最初の教室で席順が決まるので、先生の一番近くに座りました。教室終了後は当時勤務していた会社の休みの日に先生の工房に通っていました。その後退職し、1年間は先生の手伝いをしながら弟子にできるかの試行期間で、1年程経ったころ市の助成金が受けられることになり、正式に弟子にしてもらいました。私の時代は助成を頂けたのは3年間。灯籠師になったのは試行期間を含めて10年後です。
坂本 出身は熊本県の益城町で、山鹿市に住むようになったのは結婚してからです。灯籠師になろうと思ったのは、娘が小学生の時「千人灯籠踊り」で行われる「少女灯籠踊り」に出ることになり、子供たちの頭に金灯籠をのせるお手伝いをした時です。初めて見た金灯籠の美しさ、造りの精巧さにもう雷に打たれたような衝撃を受け、灯籠師になりたいと思いました。山鹿灯籠民芸館に行き、たまたまいらっしゃった中島光代先生に「灯籠師になるにはどうしたらいいですか」と聞きました。教えてもらった「灯籠教室」に行くと、私の席は決まっていました。中島清先生の隣の席を光代先生が取っておいてくれたのです。私の性格では一番端っこの席に座っていたはずです。弟子になるまで2年待ちましたが、助成は5年間ありました。私の場合は他の2人の弟子と一緒という幸運もあって、弟子入り8年で灯籠師になれました。
――中島清灯籠師は灯籠振興会の前会長ですが、どういう方だったのですか。
中島 現在灯籠師は8人いますが、全員が故徳永正弘先生か中島二人先生とその息子さんの中島清先生のお弟子さんです。昔、灯籠師は兼業でしたが、中島清先生は初めて専業の灯籠師になった人でもあるんですね。
田中 私や坂本さんが弟子の頃、奉納灯籠は30基くらいありましたが、半分は中島清先生が作っていました。金灯籠もかなりの数作っていて、だからこそ弟子が必要だったこともあったと思います。初めて自分の工房兼店舗も構えて、山鹿灯籠の販売を始めたのも、山鹿灯籠の技法でランプシェードを作ったのも中島清先生でした。熊本弁で新し物好きを「わさもん」と言いますが、灯籠師の「わさもん」だったのです。
――中島清灯籠師がランプシェードを作ったのは「わさもん」だったから?
田中 それもあったと思いますが、一番の理由は、奉納灯籠だけでは灯籠師は食べていけなかったからです。灯籠振興会が新商品開発に取り組んでいるのも同じ理由です。灯籠師が灯籠師の仕事で食べていけるようにしたいと思っているんですね。そういう苦労をしながらなぜこの仕事をやっているかと言えば、山鹿灯籠が好きだからです。灯籠師は好きだからやっていける仕事です。職人はみなそうだと思うんです。
関係者インタビュー
プロジェクト関係者に聞いてみました。
市の伝統産業であり観光資源でもある山鹿灯籠
山鹿灯籠は市唯一の国指定の伝統的工芸品であり、山鹿の象徴と言うべき存在です。毎年8月に行われる「山鹿灯籠まつり」は多くの観光客で賑わい、山鹿市の観光産業を支える重要なイベントになっています。市にとって山鹿灯籠は、山鹿の生活文化に根ざした伝統産業であり観光資源でもあるという2つの側面を持っています。
この山鹿灯籠の保存、技術・技能の継承、産業としての振興を図るため、市はさまざまな支援を行っています。その一つが山鹿灯籠民芸館の運営です。
山鹿灯籠に関する資料の収集や保存、展示のほか、制作実演なども行われている施設です。建物は大正14年に安田銀行山鹿支店として建てられたもので、昭和62年4月に市が改装し、山鹿灯籠民芸館としてオープンしました。
「山鹿灯籠制作教室」もここで行われ、後継者の育成の拠点としての役割も担っています。市は主催者として予算の確保、企画、参加者の募集、PRなどの役割を担っており、山鹿灯籠の技法を使った新商品の開発でも財政的な支援を行っています。
「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づいた5年間の振興計画が令和2年からスタートしています。今後も山鹿灯籠振興会の皆さんが実施する事業を積極的に支援し、山鹿灯籠を次の世代に伝えていきたいと考えています。